絵馬

大高山神社に奉納されている絵馬の様子
大高山神社に奉納されている
絵馬の様子
 絵馬とは、神仏に対し祈願や感謝の目的で奉納するもので、板状のものに絵や文字を書き、また模型や実物などを張りつけたものです。
 古代においては、馬を「神が喜ぶ乗り物」考え、神に祈願するときは生きた馬を神社に奉納していました。しだいに神に生馬を奉納できない人が、木馬や馬の絵を描いた木板を奉納するようになり、室町時代以降は、馬の絵でないものも「絵馬」と呼ぶようになりました。
 大高山神社に保存されている絵馬をご紹介致します。

馬は神霊の乗物として崇拝され、神社へ献馬行われましたが、代用として土、石、木製の馬型が登場し、さらに平面的な板立馬も用いられました。
 馬には雨乞いの黒馬日乞いの白馬(または赤馬)があり、絵馬にはこの両者を描いてペアで用いる場合が多く、馭者(ギョシャ)を加えて綱の付いた馬の図も多用されました。
絵馬の奉納習俗はすでに奈良時代からあり、絵馬のはじめは馬の図でしたが室町時代以降、馬以外の図が現れ、絵馬をかける特定の建物「絵馬堂」が見られるようになりました。
鎌倉時代以降、神社だけでなく寺院でも用いられ、歌仙、武者、芸能、生業、風俗など馬以外の題材が登場し、サイズも大型化する傾向が見られました。桃山時代以降、寄進者の祈願の内容や好みによって、多種多様な題材が描かれ、鑑賞性の強いもの、祈願の内容と直接関係のない主題を描くものも見られます。

絵柄の意味

日吉山王権現の神猿の意味に、山の神と庚猿信仰とが加わりました。災難・疫病がサルという縁起をかつぎました。
稲荷神の使いであり、屋敷神でもありました。相向きの一匹が鍵を加えると、穴のなかの財宝を得るという意味になりました。五穀豊穣、一家繁栄祈願が込められています。
むかで 諸毒に害を除くという本来の意味から、お足(金銭)が多いということで、上方商人に信仰されたといわれます。
にわとり 小児の夜泣き、癇の虫封じ、火の用心、鶏が餌をつつく光景から連想して、落とし物を拾う意味となります。
手足のイボから平癒祈願を意味します。
大根 二股大根は夫婦和合の象徴とされます。
おできをそりおとす、風を切って稲を台風から守るという意味があります。
蛇は水神とされることから穀物豊穣を、さらに人間の幸せを祈る絵解きになります。また蛇は鼠を食べるので鼠が減り、蚕の天敵が減って養蚕が成功するという意味もあります。
馬だけでなく、複雑に民間信仰が絡んでいるところに絵馬の大衆化を知ることができます。

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「歌舞伎絵(荒事の図)」

絵馬 大きさ 123cm×101cm
奉納年月日 享保16年(1731)4月6日
奉納者 仙台 大友屋養之丞他3名
伝承等 荒事とは、歌舞伎劇で怪力勇猛の武人とか、超人的な鬼神などを主役とする武勇ばった狂言を言います。初代市川団十郎が創出したといわれ、江戸歌舞伎の特色でした。図は、源頼光の妖怪土蜘蛛退治の図と思われます。図の中に犬と雉がいますが、これに猿が加われば桃太郎の鬼退治とも見れます。奉納者は仙台とありますが、名前は大河原の人たちで、仙台を代表地としたのでしょう。

「天子舞楽御覧の図」

絵馬 大きさ 168cm×117cm
奉納年月日 宝暦11年(1761)9月吉日
奉納者 大河原町上町 須藤屋幸四郎母
伝承等 仙台孝義録(嘉永11年刊)に、須藤屋幸右エ門の母が半身不随の長患いで臥床していましたが、幸右エ門は母の看病を召使に任せず、自らよく看病につとめ、孝養をつくしたかどにより、藩から表彰されたことがあります。願主の幸四郎と幸右エ門の関係は不明ですが、同年代の人で、兄弟かと思われます。

「軍記物語の図」

絵馬 大きさ 178cm×117cm
奉納年月日 正徳44年(1712)4月6日
奉納者 大河原町本町 皆川屋勘平
伝承等 源義経が、平家追討の命をうけ、元暦元年(1184)福原の平氏をひよどり越の難所を突破して攻略した物語図だと思われます。

「海の祭りの図(不明)」

絵馬 大きさ 118cm×90cm
奉納年月日 正徳44年(1712)4月6日
奉納者 大河原町上町 須藤屋幸右エ門
伝承等 須藤屋幸右エ門は仙南地方の豪商で、生糸・錦織、麻織物を扱い、仙台藩に4百両を献上して名字帯刀、絹布着用御免、年貢を免ぜられました。拝殿前に石灯籠を奉献しています。

「明神夢告の図」

絵馬 大きさ 126cm×94cm
奉納年月日 享保5年(1720)12月1日
奉納者 沼辺村 小関屋利兵衛
伝承等 明神から夢の中でお告げを授かっている図です。奉納者の小関屋利兵衛については不明です。

「合戦の図(源平屋島の合戦の図)」

絵馬 大きさ 151cm×151cm
奉納年月日 元禄14年(1701)7月6日
奉納者 不明
伝承等 源平合戦屋島の図は、那須に与一が舟の舳先に掲げられた扇の的を射た図です。

「竹内宿弥と龍神の図」

絵馬 大きさ 92cm×70cm
奉納年月日 安政4年(1857)9月6日
奉納者 新町○○屋 弥左エ門
伝承等 竹内宿弥は、大和朝廷初期に5帝に仕え、仲哀天皇に従って熊襲を征伐、また、神功皇后をたすけて新羅に遠征し、偉功があったといわれます。

「白鳥の図」

絵馬 大きさ 100cm×138cm
奉納年月日 不明 元禄16年〜享保3年
奉納者 仙台五代藩主 伊達吉村
伝承等 大高山神社記録には「白鳥の額 獅山公御筆」とあります。獅山公とは五代藩主伊達吉村のことです。母が白石の片倉小十郎の娘という関係もあってか、大河原のお仮家にお泊りの節は大高山にたびたび参詣したといいます。

「曳馬の図」

絵馬 大きさ 152cm×117cm
奉納年月日 元禄14年(1701)2月6日
奉納者 不明
伝承等 大河原町内ではもっとも古い年号の絵馬で、舎人が献納された馬を神前に曳いている図です。

「武者絵(劉備張飛の図)」

絵馬 大きさ 152cm×117cm
奉納年月日 明和6年(1769)4月6日
奉納者 大河原町上町 村上屋伴蔵
伝承等 中国の三国志によると、蜀漢の皇帝劉備は、小柄ながら名将諸葛孔明を参謀として関羽、張飛と結び、三国のうち最大国魏の曹操を赤壁の戦いで破り、漢中王となりました。乗馬しているのが劉備で、後ろに立っているのが張飛です。

「武者絵(那須与一宗高の的を射る図)」

絵馬 大きさ 138cm×161.5cm
奉納年月日 不明
奉納者 不明
伝承等 源平合戦の屋島合戦で、源氏と平氏が相睨み合っている最中、平氏から一艘の舟が、開いた扇を挟んだ竹の串を舳先につけて、これを射てみよと仕掛けました。対陣していた義経の輩下那須の与一は命を受けて海中に馬を乗り入れ、見事に的を射、敵、味方の喝采をうけました。

「歌舞伎絵(草慴引)」

絵馬 大きさ 166.5cm×195cm
奉納年月日 享保19年(1734)4月22日
奉納者 大河原町上町 高橋屋新助
伝承等 草慴引は歌舞伎舞踊の一つで、曽我五郎の朝比奈と鎧の草慴を引き合う荒事が舞踊化したものです。絵の中央の若衆姿の男が曽我五郎で、その五郎の右袖をつかんでいるどてら風の広袖カマヒゲ双肌の男が朝比奈です。左上部の反り身の長い太刀の男が敵役の工藤祐経で、右前の遊女風の二人の女性は大磯のトラと化粧坂の少将です。全国的に優れた絵馬として高く評価されています。

「鳥の図」

絵馬 大きさ 90.5cm×82.5cm
奉納年月日 天保11年(1840)
奉納者 金ケ瀬村 棹岳山人 長沢卯右衛門
伝承等 大高山神社の祭神日本武尊の亡骸は白鳥に化したという伝説から、日本武尊を祀る大高山神社は、一名白鳥大明神と称しています。この由緒から白鳥の絵は当然であるのに、黒鳥一羽が描かれています。形も屋根型です。

「伊勢物語の図?」

絵馬 大きさ 105cm×86.5cm
奉納年月日 不明
奉納者 大泉(某)
伝承等 伊勢物語は、平安時代の歌物語で、男女の交情を125の説話で綴っています。これもその一つで、武者一人が門前に訪れている図です。

「学校授業の図」

絵馬 大きさ 171.5cm×180.5cm
奉納年月日 明治12年12月24日
奉納者 寺島寛治 他5名
伝承等 透視画法によって室内の奥行きを表現しており、西洋画法を取り入れた描き方です。女教師は、緋の袴の和装、男教師は、詰め襟の洋装姿です。生徒の服装はこの地方の者ではありません。

「日本武尊熊襲退治の図」

絵馬 大きさ 185cm×70cm
奉納年月日 不明
奉納者 金ケ瀬村 押野源作
沼辺村 吉野万平作
伝承等 大高山神社の祭神日本武尊が熊襲に酒を飲ませて退治する図です。
白鳥のイメージ